小松左京

小栗旬が主役を演ずる「日本沈没」が始まった。

2006年に当時SMAPの草彅剛と柴崎コウが主演の映画にもなった。

2021版がどんな物語になるかはまだわからないが、2006年の映画同様に、原作とは以て非なるものになりそうだ。

 

1969年(昭和39年)というから、私が小学校に入学した年だ。
日本沈没」は小松左京氏によって書き始められた。
それから9年かかって「日本沈没」は世に出た。
1973年(昭和48年)3月20日、つまり私が高校一年になる直前だ。
初めて読んだ小松左京氏の「復活の日」にとりつかれていた私は発売と同時に「日本沈没」上・下巻を一気に読んだ。
今になって理解できる。

そのときは表現する言葉を持たなかったが、私は小松左京氏を『知の巨人』だと認識したのだ。
文学だけをやっている人間には絶対に書けない小説だった。
フィクションであるにしろ、この日本を、読んだ人が納得してしまう程、理論的に沈没させてしまったのだよ。
圧倒的なイメージに打ちのめされた、そしてその思いは「復活の日」と全く同じだった。

しかも、しかもだよ、この人は日本沈没の終わりに『第一部 完』と書いていた。
なんと彼が書きたかったのは、日本列島という母なる大地を失った日本民族の行方だった。
良きにつけ悪しきにつけ、太古より日本民族は、この日本列島と共に生き、時に列島を飛び出そうとしても、こっぴどくやられて、結局は列島に舞い戻った。
列島は日本人にとって母みたいな存在で、外で負けたら母の元に戻ってやり直せばよかった、と小松氏は言っていた。
そんな日本人が帰るべき列島を失ったとき、日本民族はどうなるのか、それが小松氏が書きたかったことだというのだ。
ということは、小松氏は、そういうシチュエーションを作るために、行きがかり上、日本を沈没させただけのこと、ということになる。

 

あいた口が塞がらなかった。

その圧倒的な創造力に打ちのめされた。

しかし、その感情は心地よいものだった。

私は、小松氏の紡ぐ物語を読み続けた。

日本沈没 第二部」は、2006年に谷甲州氏との共著で出版された。

1995年の阪神淡路大震災の被災により深刻な鬱病になり、小松氏ひとりでは小説を書き進められない状況下での出版だった。

東日本大震災があった2011年の7月に、小松氏は肺炎で帰らぬ人となった。

享年80は、氏にとって早かったのか、全てやりつくした死だったのか、私には判断できない。

残念なのは、大作「虚無回廊」が未完になってしまったことだ。

不信にはコストがかかる

2021年ノーベル物理学賞3人のうち一人は日本出身の真鍋淑郎さん。

国籍はアメリカである。

物理学賞だけでいうと、2008年の南部陽一郎さん、2014年の中村修二さん、そして今年の真鍋淑郎さんが、日本出身でアメリカ国籍である。

色々な意見があるだろう。

優秀な人材は海外へ流れてしまっている、研究に没頭できる環境が日本には足りない、学問が政治絡みになりすぎて純粋な基礎学問が育たない、などなど。

真鍋さんは、インタビューでこう言った。「私が日本で研究できないのは、周囲に合わせる能力がないからです」

一理も二理もある。日本には昔から「世間」というものがある。自分が生まれる遙か昔から「世間」というものがあって、歴史上、日本社会はそれを軸に動いてきた。そこには「人を信用する」という文化があって、それは「人を信用するとコストが低くすむ」という事実が支えていた。相手を信用していないと何でもいちいち確かめなくてはならなくなる。これは手間暇、つまりコストがかかるということ。日本では昔から口約束で物事が進むことが多かった。これはいいかげんなことであると憤る人もいると思うが、実はこれほど楽なことはない。

日本人同士がお互いに信頼していた時代には、不信から生じるコストが低かった。見過ごされやすいが、これは日本という国が世界で成功してきたひとつの要因なのではないか。

これはアメリカには全くない文化だ。アメリカの結婚式では、牧師様が花婿・花嫁を前にこうたずねる、「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、死が二人を分かつまで、真心を尽くすことを誓いますか」。アメリカでは結婚ですら契約であり、死が二人を分かてば、契約解消だよ、と暗に宣言する社会だ。そう言っておかなければならない、互いが異なる心情の持ち主である、という不信が土台の社会なのだ。

これには、アメリカが元々多国籍社会であるという背景がある。何の前提もなくみんなが認める「もの」など何もない、つまり「世間の常識」というものが存在しない。だから全てが契約で縛られており、その結果、能力のある者は周りに気を使わずとも結果を出せば認められる社会になる。

真鍋さんが言った「私が日本で研究できないのは、周囲に合わせる能力がないからです」とは、つまりそういう意味だろう。

 

上杉鷹山が破綻しかけた米沢藩を立て直したとき、峠に棒杭に引っかけた籠にお金を入れて野菜を持って行くという商売を発見して涙した、という逸話があるが、この「棒杭の商い」は、今でもこの日本に存在する。日本以外の国では考えられないことであるという。

なんでも疑い、他人を信じず、やりたいようにやるのが正しい社会、確かに能力のある研究者にとっては、仕事がし易い社会ではある。

ただ、見えない所にも手を抜かない、誰からも信用される職人肌の学究者はなかなか育たないだろう。

カミオカンデの小柴さんやiPS細胞の山中さんのような日本的な方、私はすきだなぁ。

 

憂い

人間という奴は、自分のパイを拡大する方向にしか動けない生き物なんだよねぇ。
現状維持でいい、とは決してならない。
現状維持では経済が衰退してしまうし。。。

蒸気機関に始まる産業革命以来150年、我々の社会は大いに発展しました。
これはもう、発展とかいうレベルではなく「人類の進化」と言ってもいいでしょう。

本来、生物はダーウィンのいう「自然淘汰」により進化すると考えられてきました。
それには、気の遠くなる程の時間がかかりました。

しかし、技術革命による「疑似進化」は自然の摂理を無視して人類を変えつつあるように見えます。

「技術革命」への信頼(盲信と言ってもいいかも)は、経済において、いわゆるパイを増大させてきました。
それは、現実にパイが増大しているわけではなく、「パイは増大し続けるだろう」という希望的観測の上になりたった虚構です。

今後も人類全体のパイが増大する保証は、実は全くないのです。

人口が増大する地域(発展途上地域)では、ますます環境が劣悪化する。
人口が減少に転ずる地域(高度成長を目指す社会)では、持てる者と持てない者の格差が拡大し、現実として消費は減ってゆく。

これからは、一国の発展だけを考えていては、絶対に人類の成長はあり得ません。
地域や階級の格差を縮める方向へ技術を使わなければ、経済の発展はないのに、大国の我が儘が突出してゆく現状。。。

人類にとって、真の意味で賢い指導者が求められる所以でしょう。

経営者であるじげどのには、重々承知のことでしょうが、難しい問題です。

原子の夢(映画「太陽の子」によせて)

科学とは自然がどのような法則で我々の前に現れるのかを知るためのもの
それ以下でもそれ以上でもありません


だからこそ、科学を好奇心以上の思惑を持って利用しようとする者には本当の智慧がなければならないと思います

科学そのものには、人間への恩恵も弊害もないのです
全ての責任はそれを利用しようとする人間の思惑にあります

願わくば科学者の好奇心と為政者の思惑が全ての人の幸せのためにあらんことを。。。

マヨネーズ

mayonnaise(フランス語)
該当する日本語なし
 

元々はスペインのマオー=マオン(Maó-Mahón)地方で作られたことが語源であるようだ。食用油・酢・卵を材料にしたドレッシングのことである。

全卵タイプと黄卵があるらしく、最も出回っているキューピーの製品が黄卵タイプのため日本では黄卵マヨが主流であるが、世界的には全卵が多いそうだ。
(そもそも、海外のマヨネーズは日本人好みにアレンジされたマヨネーズとはずいぶん違うということだ。)

日本で流通しているマヨネーズは、水分活性が低く、食酢によって pH が酸性で、細菌が生存できる環境ではないため、食中毒を心配する必要がないということである。

私も若い頃は結構マヨラーであった(直接マヨネーズのみ吸って飲んでいたこともある)が、体格が・・・になって以来控えている。

オーパーツ

OOPARTS
該当する日本語なし

 

"OOPARTS"は"Out-Of-Place ARTifactS"の略で、直訳すると「場違いな工芸品」となる。
これは何かが発見されたとき、それが使われていた時代や場所と全然そぐわない物品を指す。

例えば、縄文土器の中から腕時計が出てきたような場合、これをオーパーツという。
歌川国芳の浮世絵の東京スカイツリーオーパーツと言えるかもしれない。

有名なものでは、「ピリ レイスの地図(1513年に作られた地図に南極が書かれている。南極が発見されたのは1818年)」「秦の始皇帝兵馬俑から出土したクロムメッキ製品」「聖徳太子の地球儀」「ナスカの地上絵」など枚挙に暇がない。
「サンダルで踏まれた三葉虫の化石」なんてものもあるそうだ。

興味を持った人は調べてみると、いろんな人がいろんなことを行っているので、なかなか面白い。
「ピリ レイスの地図」だけでも調べてみるといいですよ。

アルバイト

arbeit(ドイツ語)
仕事

ドイツ語の"arbeit"を英語に訳すと、"job"や"work"である。
つまり単に「仕事」という意味だ。

ところがカタカナ語の「アルバイト」は、主に学生がするパートタイム(非常勤)の仕事として使われている。これは明治時代に学生が隠語として「アルバイト」を使ったことが広まった結果だそうだ。

日本での「アルバイト」を正確に言うと「期間の定めのある労働契約に基づき企業より雇用される従業員または労働者」になるんだそうだ。この定義は「パートタイマー」にも当てはまる。

私が学生の頃、最も賃金の高い「アルバイト」は、火葬場の煙突掃除であるとまことしやかに言われていた。(やった者に実際にお目にかかったことがないので信憑性は薄い)
一回30万円で、何人でやってもその値段なんだそうだ。(昼間は使われているので夜の作業なんだそうだが)

私が工事現場の資材運びという一日十時間の肉体労働の金が3500円(時給350円!)だったから、30万円は破格である。

尚、「フリーター」は、「フリーランス アルバイター」の略で、学生は含まれないんだそうだ、へぇー。