不信にはコストがかかる

2021年ノーベル物理学賞3人のうち一人は日本出身の真鍋淑郎さん。

国籍はアメリカである。

物理学賞だけでいうと、2008年の南部陽一郎さん、2014年の中村修二さん、そして今年の真鍋淑郎さんが、日本出身でアメリカ国籍である。

色々な意見があるだろう。

優秀な人材は海外へ流れてしまっている、研究に没頭できる環境が日本には足りない、学問が政治絡みになりすぎて純粋な基礎学問が育たない、などなど。

真鍋さんは、インタビューでこう言った。「私が日本で研究できないのは、周囲に合わせる能力がないからです」

一理も二理もある。日本には昔から「世間」というものがある。自分が生まれる遙か昔から「世間」というものがあって、歴史上、日本社会はそれを軸に動いてきた。そこには「人を信用する」という文化があって、それは「人を信用するとコストが低くすむ」という事実が支えていた。相手を信用していないと何でもいちいち確かめなくてはならなくなる。これは手間暇、つまりコストがかかるということ。日本では昔から口約束で物事が進むことが多かった。これはいいかげんなことであると憤る人もいると思うが、実はこれほど楽なことはない。

日本人同士がお互いに信頼していた時代には、不信から生じるコストが低かった。見過ごされやすいが、これは日本という国が世界で成功してきたひとつの要因なのではないか。

これはアメリカには全くない文化だ。アメリカの結婚式では、牧師様が花婿・花嫁を前にこうたずねる、「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、死が二人を分かつまで、真心を尽くすことを誓いますか」。アメリカでは結婚ですら契約であり、死が二人を分かてば、契約解消だよ、と暗に宣言する社会だ。そう言っておかなければならない、互いが異なる心情の持ち主である、という不信が土台の社会なのだ。

これには、アメリカが元々多国籍社会であるという背景がある。何の前提もなくみんなが認める「もの」など何もない、つまり「世間の常識」というものが存在しない。だから全てが契約で縛られており、その結果、能力のある者は周りに気を使わずとも結果を出せば認められる社会になる。

真鍋さんが言った「私が日本で研究できないのは、周囲に合わせる能力がないからです」とは、つまりそういう意味だろう。

 

上杉鷹山が破綻しかけた米沢藩を立て直したとき、峠に棒杭に引っかけた籠にお金を入れて野菜を持って行くという商売を発見して涙した、という逸話があるが、この「棒杭の商い」は、今でもこの日本に存在する。日本以外の国では考えられないことであるという。

なんでも疑い、他人を信じず、やりたいようにやるのが正しい社会、確かに能力のある研究者にとっては、仕事がし易い社会ではある。

ただ、見えない所にも手を抜かない、誰からも信用される職人肌の学究者はなかなか育たないだろう。

カミオカンデの小柴さんやiPS細胞の山中さんのような日本的な方、私はすきだなぁ。