ICTを教育に取り入れるという実態に思うこと

私は今、ICT支援員という仕事をしています。これは、多忙な学校の先生方をお手伝いする形で、一つの学校を週一回程度訪問し、パソコンなどを授業に活用する助言をするというものです。

来年度(2023年度)四月からも、週四でICT支援することになりました。
訪問する学校は倍くらいになるのですが、一校あたりの訪問回数は減ります。
(つまり、人減らしで、ICTに対する市の予算が減ったということです。)

前々から、ICT支援員というのは、束の間のあだ花のような仕事だと思っていました。
なぜなら、やはり本職の先生のなかにICT支援のプロが出てこないといけないと思っていたからです。
先生がICTの責任者として推進計画に携わるようでなければ、結局は組織的活動が定着しないのですよ。

私のような一介の支援員には、組織を動かす力量も権限もないわけで、やることに自ずから限界がありますからね。

でもね、三年目にして予算が削減されるというのはちょっと問題ありかな、とも思っています。
まだまだ、組織を束ねるICTの専門家は先生達の中に育っていないのが現状だし、ICT授業への取組が個々の先生の意識の高さに左右される部分が大きい。

高校で「情報Ⅰ」という科目が必修になっているのに、教える先生が、免許外の兼任率が高く、学校による格差が問題にもなっています。
日本が、デジタル後進国と言われる所以です。

学校教育に、ICTが必要なのは言うまでもないのですが、100%ICT授業になることもあり得ない。
なにをICTに任せ、なにを人が教えなければならないのかもきちんと議論されずに、かけ声だけで極めて曖昧な政策を進めている、そんな状態でいいわけがない。
私が悩むことでもないのだけれど、危機感は募ります。

のほほんとしていると、子供たちの方が、先生達より、よほどICTに詳しくなって行きます。信念を持ってちゃんと指導できる先生は増えるのでしょうかねぇ。。。

パンドラの箱

有名なギリシャ神話。

ゼウスが与えた箱(壺が正しいらしい)を開けてしまったパンドラ。
すると、箱の中からは疫病、犯罪、悲しみなどなど、ありとあらゆる災いが飛び出してきた。慌てたパンドラが箱を閉めた結果、箱の中には「希望」だけが残された。

・なぜあらゆる災厄のなかに「希望」が混じっているのか
・なぜ「希望」が最後に残ったのか
・「希望」が残されたのは、人間にとって、『僥倖』なのか、それとも『奇禍』なのか

これ、不思議な神話なんですよねぇ。

私は『希望』が災厄の仲間であるとは思いたくない。

飛び出した災厄が人間社会を破壊するものであるなら、破壊され尽くした瓦礫の中から人が立ち上がる原動力として『希望』が切り札として残っている。
そう思いたい。

妄想

現在は80億人、2.2倍。。。
そして世界の平均寿命は、1950年で、なんと32才、現在は73才、2.3倍。。。

宇宙船地球号という閉鎖空間で、資源を食い潰すヒトの数は倍増し、しかも平均寿命も倍になっている

これは温暖化も進むわけだし、世の中の軋轢も増える
私の計算では、ヒトひとりあたりのストレス度は、私が生まれたころと今では、7倍である
(人口増加率と平均寿命増加率をかけただけであるが)

ストレスを背負って長生きするのだから、ヒトは間違いなく変化する
そうでなければ生きられない
つまりは、倫理が鈍化する、これが私の理屈だ

この先、ストレスが過大な仕事は、AIが肩代わりするようになるのではないだろうか
(AIが誰を手本に学習するかが大きな問題ではあるが)
真っ当なお手本がいれば、三権(立法、行政、司法)なんてものはAIに任せた方が世の中平和になるんではないかと、この頃考えてしまう
だって、AIには、利権を追い求めて、本来の仕事をおろそかにするという(人間的な)欲望はないだろうから
少なくとも、P大統領のようなことは、AIはやらないだろうし、K首相よりは、AIのほうが何か仕事をするのではないかと考えてしまう

私は、AIにこそ、真っ当な自尊心を期待する
なぜって、ヒトは相対として、真っ当な自尊心を失いつつあると感じているから

AIの学習には、孔子とか、デカルトモンテスキューなどの哲学者がいいのではないかな
きっと欲にまみれた政治には走らないだろう

懺悔

二十世紀、二十一世紀を生きてきた。

そして日本は、経済大国でも技術立国でもなくなった。

なにより、日本は恥を知る心「廉恥」を失った。

 

毎日流れる監視カメラやドライブレコーダーが捉える愚行の数々。

政治家は国民を見ず、選挙支援者しかその視野にない。

官僚も現場を見ず、己と己の組織の保身しか考えない。

企業家も五輪委員も、およそ上に立つ物は金儲けしか頭にない。

 

私たちは、齢六十を過ぎて、こんな国しか作ることができなかった。

日本ですらそうなのだから、世界全体を見渡せばその未来ははなはだ心許ない。

 

二〇二二年の十五夜

私たちの力でできることは、もう多くない。

美しい明月を、そして世界を託すのは、私たちの子や孫になる。

申し訳なくて涙が出る。

 

死について

養老孟司さんがおっしゃっています。
「死」には、一人称、二人称、三人称があると。

一人称の死とは、自分の死。
これは現実には存在しません。
死んでしまった自分を体験するのは不可能ですから。

三人称の死は、日々あふれています。
著名人から見知らぬ人まで、毎日沢山の人が亡くなっています。
しかし、この大量の死に全て感情移入していたら、精神が持たない。
悲しいけれど、個人としては聞き流すしかない(ウクライナにしてもそうです)。

従って、「自分」にとっての「死」とは、二人称の死しか存在し得ない。
つまり、私が「死」を「死」として受け止めるのは、「あなたの死」しかないのです。

自分にとって身近な方の「死」だけが、自分にとっての「死」であるといえる。

 

三人称の死は日々あふれているけれど、そのひとつひとつの死を二人称で捉えている人が必ずいることを忘れないでいたいと思います。

世界の終わり

プーチンにはもはや二つの道しか残されていない。

一つの道は、ロシアによるウクライナの制圧。

そしてもう一つは、全てから孤立し世界人類を道連れにした「心中」だ。

事態は、もう引き返せないところまで来てしまった。

 

各国の首脳たちは誰も言わない。

「世界を第三次世界大戦から救うには、ウクライナを生け贄にするしかない」と。

 

表だっては言えるわけがない。

何よりそんなことを認めたら、その後の世界はめちゃくちゃだ。

理不尽なのはプーチンだ、ゼレンスキーではない。

 

しかし、大国トップの異常な狂気は、本当に世界を終わらせる力を持っていて、その行使をどの国の首脳も防ぐことができない。

だとすれば、いったい私たちは何をすればいいのか。

 

「西側だ、東側だ」「民主主義だ、社会主義だ」という問題でもない。

たったひとりの人間の暴走を、世界の誰も止めることができない、その事実。

 

人類はこの事態にどう対応するのか。

人類は「賢い」のか「愚か」なのか。

 

「愚か」なのならば、明日の朝には、世界に核弾頭が飛び交うのかもしれない。

「賢い」ならば。。。

衆院選2021

衆院選、終わってみれば投票率は34.32%なのだとか。
有権者の三分の二が投票しないというのは、結局切羽詰まっている人がいないということなんだろう。
どこが政治を担おうが、自分はまずまず生活できると思っている人が大半だということがわかった。

日本には昔から民衆一揆というものがある。
戦国時代があったし、明治維新もあった。
ほんとうに人集に\民衆が生活のこまったら、自然に行動は起こる。

かつて川崎市長選挙で投票率が20%そこそこということがあった。
それでも市政が破綻しなかったのは、誰が市長でも市民はいっこうに困らないということだ。

若者たちよ、親が裕福だから今は危機感がない。
親の蓄えを食い潰し、自分の子供や孫の時代のツケだけは考えていたほうがいいと思うぞ。